近代文学館 施設案内

かごしま近代文学館 施設案内

文学館 1階

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鹿児島情熱絵巻

鹿児島の情景とそこで生まれた文学作品を映像で紹介します。

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鹿児島ゆかりの作家たち

常設展示作家のポートレートと、作家たちのほとばしる情熱を表現した言葉のレリーフが皆さまをお迎えします。

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ゆかりの作家たちの情熱

鹿児島ゆかりの5人の作家(海音寺潮五郎、林芙美子、椋鳩十、梅崎春生、島尾敏雄)が創作に傾けた情熱や創作過程をジオラマ等で紹介。また、様々なテーマで各作家の人となりや作品世界を紹介します。

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文学アトリエ

ことば遊びやワークショップ、読書をとおして、文学に触れ合えるコーナーです。

ことばアトリエ

タッチパネルに触れると「ことば」が浮かび上がる「ことばの情景」や、電子黒板を使って表現する楽しみを味わうことができる「みんなの原稿用紙」があります。

本のひろば

鹿児島ゆかりの作家の代表作や、館おすすめの話題作等を手に取って読めるコーナーです。

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ライブラリー(無料ゾーン)

鹿児島ゆかりの文学作品や文学雑誌、児童書などを自由に閲覧できます。

1階常設展示作家の紹介

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう)

1901年11月5日~1977年12月1日 没年76歳
本名・末冨東作。小説家。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。国学院大学卒業後、鹿児島県立指宿中学校、京都府立第二中学校で教鞭を執りながら執筆を行う。1936(昭和11)年、「天正女合戦」「武道伝来記」で第3回直木賞受賞。以後、歴史小説を次々と世に送り出した。晩年はライフワークである史伝「西郷隆盛」の完成に心血を注いだが、未完のまま逝去した。その他の作品に「天と地と」「平将門」「武将列伝」等。

林 芙美子(はやし ふみこ)

1903年12月31日~1951年6月28日 没年47歳
小説家。福岡県門司市(現・北九州市)生まれ(下関生誕説あり)。母が鹿児島市出身。少女時代は母と養父と共に各地を行商して歩き、10歳の時に一人で母の故郷・鹿児島に預けられ、市内の山下尋常小学校に在籍した。尾道高等女学校卒業後、カフェー勤めなど職を転々とする。これらの体験をもとに、自伝的小説「放浪記」を発表、一躍流行作家となる。その他の作品に「清貧の書」「晩菊」「浮雲」等。

椋 鳩十(むく はとじゅう)

1905年1月22日~1987年12月27日 没年82歳
本名・久保田彦穂。児童文学作家。長野県下伊那郡喬木村生まれ。法政大学卒業後鹿児島に移り、教員生活をしながら山窩小説やすぐれた動物物語を発表。のちに鹿児島県立図書館長に就き、創作活動を続けながら、読書運動にも取り組む。その他の作品に「大造爺さんと雁」「片耳の大鹿」「カガミジシ」「孤島の野犬」「マヤの一生」等。

梅崎 春生(うめざき はるお)

1915年2月15日~1965年7月19日 没年50歳
小説家。福岡市生まれ。東京帝国大学卒。戦時中、暗号特技兵として指宿、坊津など九州各地を転々とし、終戦を桜島で迎える。この時の体験をもとに執筆した「桜島」で、戦後文学の代表者の一人となった。1955(昭和30)年、「ボロ家の春秋」で第32回直木賞受賞。その他の作品に「日の果て」「狂い凧」「幻化」等。

島尾 敏雄(しまお としお)

1917年4月18日~1986年11月12日 没年69歳
小説家。神奈川県横浜市生まれ。戦時中、第十八震洋隊の指揮官として奄美群島加計呂麻島に駐屯。この特攻隊体験は、彼の生涯と文学に大きな影響を与えた。戦後、「単独旅行者」などにより戦後文学の有力新人と目される。妻・ミホが心因性反応を発病ののちは、妻の故郷・奄美大島に移住し、鹿児島県立図書館奄美分館長を務めながら作品を執筆。主な作品に「死の棘」「出発は遂に訪れず」「日の移ろい」等。

近代文学館1階 パノラマ映像

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文学館 2階

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鹿児島文学の群像

鹿児島ゆかりの22人の作家を紹介。また、様々なテーマで収蔵品展や企画展を開催します。

<22人の作家>
有島武郎、有島生馬、里見弴、昇曙夢、山本實彦、古木鐵太郎、平林彪吾、妻木新平、一色次郎、黒田三郎、八田知紀、税所敦子、黒田清綱、高崎正風、吉井勇、萬造寺齊、森園天涙、杉田久女、山口誓子、篠原鳳作、藤後左右、福永耕二

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向田邦子の世界

脚本家で小説家の向田邦子は、少女時代のわずか2年余り過ごした鹿児島の地を「故郷もどき」と呼び、特別に愛しました。

当館では、ご遺族より約9,000点に及ぶ膨大な資料を寄贈いただき、「向田邦子の世界」に資料を展示しています。
いつ訪れても、向田邦子の残り香に触れられる。そんな空間を演出しています。

彼女の残した作品の世界や、現在でも多くの女性の憧れであるライフスタイルをどうぞお楽しみください。

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文学ホール

展覧会や講演会などのイベントスペース。貸出も行っております。

2階常設展示作家の紹介

有島 武郎(ありしま たけお)

1878年3月4日~1923年6月9日 没年46歳
小説家。東京府小石川区(現・東京都文京区)生まれ。父・武は薩摩国薩摩郡平佐郷(現・薩摩川内市)の出身で維新後、実業界で成功を収めた。有島生馬、里見弴の兄。札幌農学校卒業後、3年間アメリカに留学。帰国後、母校の教授に就任するとともに、文芸雑誌「白樺」の創刊に参加し、文筆活動を展開。主な作品に「或る女」「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」等。

有島 生馬(ありしま いくま)

1882年11月26日~1974年9月15日 没年91歳
画家、小説家。神奈川県横浜区月岡町(現・横浜市西区)生まれ。有島武郎の次弟、里見弴の兄。一時、病気のために父の郷里・薩摩川内市で療養した。のちに、東京で鹿児島出身の画家・藤島武二に師事。22歳から5年間渡欧して絵画、彫刻を学んだ。帰国後は文芸雑誌「白樺」の同人となり、新体詩や小説を発表。セザンヌを初めて日本に紹介するなど、日本画壇に大きな影響を与えた。著作集に『蝙蝠の如く』『嘘の果』等。

里見 弴(さとみ とん)

1888年7月14日~1983年1月21日 没年94歳
本名・山内英夫。小説家。神奈川県横浜区月岡町(現・横浜市西区)生まれ。有島武郎、生馬の弟。母の弟・山内英郎の養子となったが、養父没後は有島家で育つ。学習院中等科時代から兄・生馬やその友人・志賀直哉の強い影響を受け、文芸雑誌「白樺」の創刊に参加。小説のほか、翻訳や詩歌を発表。後、「白樺」から離れ、独自の作風を築いた。主な作品に「善心悪心」「安城家の兄妹」「多情仏心」等。

昇 曙夢(のぼり しょむ)

1878年7月17日~1958年11月12日 没年80歳
本名・直隆。翻訳家、ロシア文学者。鹿児島県奄美大島実久村(現・大島郡瀬戸内町)生まれ。17歳で上京し、ニコライ正教神学校で学ぶ。卒業後は母校の講師や陸軍士官学校教授などを務める。翻訳集『露西亜現代代表的作家六人集』をはじめ、多くのロシア文学の翻訳本を出し、当時の文学青年に大きな影響を与えた。1928(昭和3)年には、トルストイ誕生100年祭に国賓として招待された。戦後は『大奄美史』を刊行。アメリカ軍政下の奄美諸島の日本復帰運動にも貢献した。

山本 實彦(やまもと さねひこ)

1885年1月5日~1952年7月1日 没年67歳
出版人、随筆家。鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現・薩摩川内市)生まれ。大学卒業後、「門司新報」「やまと新聞」記者を経て、東京毎日新聞社長に就任。1919(大正8)年改造社を設立し、総合雑誌「改造」を創刊した。一冊一円の円本の発売や、バートランド・ラッセル、アインシュタインの招聘など、創意あふれる出版活動を展開し、日本の出版界に大きな影響を与えた。また、鹿児島選出の代議士としても活躍した。

古木 鐵太郎(こき てつたろう)

1899年7月13日~1954年3月2日 没年55歳
小説家。鹿児島県薩摩郡宮之城村(現・さつま町)生まれ。21歳の時、同郷の先輩・山本實彦を頼って上京、改造社に入社した。総合雑誌「改造」の編集者となり、志賀直哉、武者小路実篤、里見弴、芥川龍之介、葛西善蔵らと交流した。のち、退社して作家となる。私小説作家として、一貫して自身のことや家族の思い出を書き続けた。主な作品に「子の死と別れた妻」「紅いノート」等。

平林 彪吾(ひらばやし ひょうご)

1903年9月1日~1939年4月28日 没年35歳
本名・松本實。小説家。鹿児島県姶良郡西襲山村(現・霧島市隼人町)生まれ。日本大学卒業。学業のかたわら、詩と評論の雑誌「第一芸術」を創刊、主宰する。その後も喫茶店経営をしながら執筆を続け、日本プロレタリア作家同盟に加盟。「鶏飼いのコムミュニスト」が雑誌「文芸」の懸賞小説に入選し、文壇の注目を集めた。その他の作品に「月のある庭」「肉体の罪」等。

妻木 新平(つまき しんぺい)

1905年5月6日~1967年3月28日 没年61歳
本名・福永隼人。小説家。鹿児島県出水郡西長島村(現・長島町)生まれ。日本大学を卒業後、東京地方裁判所書記官として勤務。戦後は、母校の講師を務めながら執筆を続けた。同人誌「短編小説」「日本文学者」などに参加。それを組織した日本青年文学者会の委員としても活躍した。主な作品に「妻の従軍」「名医録」(第19回芥川賞候補)等。

一色 次郎(いっしき じろう)

1916年5月1日~1988年5月25日 没年72歳
本名・大屋典一。小説家。鹿児島県大島郡知名村(現・知名町、沖永良部島)生まれ。3歳の時父が、11歳の時に母が非業の死を遂げ、苦労を重ねながら小説家となった。19歳で鹿児島朝日新聞(現・南日本新聞)に歴史物語を連載し、翌年上京。1967(昭和42)年には、母への想いを綴った「青幻記」で第3回太宰治賞を受賞する。また、早乙女勝元らと共編の『東京大空襲・戦災誌』により菊池寛賞を受賞した。その他の作品に「太陽と鎖」等。

黒田 三郎(くろだ さぶろう)

1919年2月26日~1980年1月8日 没年60歳
詩人。広島県呉市生まれ。3歳から20歳で上京するまでを鹿児島市で育つ。第七高等学校時代に詩誌「VOU」に参加。東京帝国大学卒業後、ジャワ島で農園管理に従事。戦後はNHKに放送記者として入局した。1947(昭和22)年、田村隆一らと雑誌「荒地」を創刊。結核と戦いながら、詩作と評論活動を続けた。1955(昭和30)年、処女詩集『ひとりの女に』でH氏賞受賞。その他の詩集に『ふるさと』『小さなユリと』等。

八田 知紀(はった とものり)

1799年10月13日~1873年9月1日 没年73歳
号・桃岡。歌人、国学者。薩摩国鹿児島郡西田村(現・鹿児島市常盤町)生まれ。のちに短歌王国と呼ばれた鹿児島の歌壇隆盛の基礎を築いた一人。15歳で藩に出仕。国学と歌道を志し、26歳で京都に出た後は、桂園派の祖である香川景樹に和歌を学び、やがて景樹門下の高弟として名を成した。維新後、東京に移り、宮内省歌道御用掛となり、弟子の高崎正風や税所敦子の宮中入りの道を開いた。主な歌集に『しのぶぐさ』等。

税所 敦子(さいしょ あつこ)

1825年4月23日~1900年2月5日 没年74歳
旧姓・林。歌人。京都錦織村(現・京都市左京区岡崎)生まれ。千種有功、八田知紀に師事。20歳で薩摩藩士・税所篤之と結婚したが、28歳で夫を失い、鹿児島に移り住んで姑に孝養を尽くす。藩主・島津斉彬にその才を認められ、世子・哲丸の守役を務めた後、近衛家に出仕。御歌所所長・高崎正風に推されて宮内省に入り、皇后、皇太后に仕え、宮中に快活明朗な気風を広めた。歌集に『御垣の下草』、京都から薩摩への道中を記した紀行文集『心つくし』等。

黒田 清綱(くろだ きよつな)

1830年4月18日~1917年3月23日 没年86歳
号・瀧園。歌人。薩摩国鹿児島郡荒田村(現・鹿児島市上荒田町)生まれ。明治維新前後は国事に奔走したが、その後、東京府大参事、貴族院議員、枢密顧問官、宮内省御用掛などを歴任。和歌を八田知紀に学び、高崎正風没後は御歌所所長を務めた。瀧園社を結成して後進の指導に当たった。主な歌集に『瀧園歌集』『庭の摘草』『真土集』等。日本の洋画界をリードした黒田清輝は、後継ぎの養子に当たる。

高崎 正風(たかさき まさかぜ)

1836年9月8日~1912年2月28日 没年75歳
歌人。薩摩国鹿児島郡川上村(現・鹿児島市冷水町)生まれ。13歳の時、薩摩藩主をめぐるお家騒動「高崎崩れ」(お由羅騒動)で藩士の父は切腹、正風は2年後奄美大島に流された。3年後、流罪が許され、八田知紀に師事。幕末には京都留守居付役となり国事に奔走。1868(明治元)年、征討将軍の参謀、1888(明治21)年、御歌所の初代所長となり、明治天皇の信任厚く、歌道の師となった。歌集に没後編纂された『たづがね集』がある。

吉井 勇(よしい いさむ)

1886年10月8日~1960年11月19日 没年74歳
歌人、劇作家、小説家。東京府芝区(現・港区)生まれ。祖父・友實は薩摩藩士で、明治維新の際、西郷や大久保らと国事に奔走、のち枢密顧問官となった。19歳で新詩社に入り、「明星」に短歌を発表、新進歌人として注目を集めた。「明星」脱退後、北原白秋らと「パンの会」を結成、翌年、石川啄木らと「スバル」を創刊。第1歌集『酒ほがい』で、酒と女を題材に青春の放埒と情痴の世界を描出して、頽唐歌風を樹立した。創作活動は短歌のみに止まらず、戯曲、小説、歌謡、随筆など多岐にわたる。

萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし)

1886年7月29日~1957年7月9日 没年70歳
歌人、小説家、英文学者。鹿児島県日置郡羽島村(現・いちき串木野市)生まれ。川内中学時代から歌誌「明星」に投稿を始め、第七高等学校時代にはすでに有望な歌人として注目され、東京帝国大学時代は「明星」の東大三羽鴉の一人と称された。のち「スバル」に参加して、短歌、詩、小説、翻訳などを発表した。同誌廃刊後、後継誌として「我等」を創刊(10号で廃刊)。一時郷里に戻り、所有地を農民に解放し、京都に転居。大谷大学英文教授などを務めた。主な歌集に『憧憬と漂泊』『蒼波集』『山嶽頌』等。

森園 天涙(もりぞの てんるい)

1889年7月10日~1957年1月30日 没年68歳
本名・豊吉。歌人。鹿児島県薩摩郡上東郷村(現・薩摩川内市)生まれ。藤川高等小学校卒業後、同校の代用教員をしながら、独学を続け、24歳で生前唯一の歌集『白晝の山』を刊行した。後、上京して岩谷莫哀らと「珊瑚礁」を創刊。本誌終刊後は、大阪の大正日日新聞、大阪毎日新聞、東京日日新聞勤務を経て、鹿児島日報(現・南日本新聞)編集局長に就任。南日歌壇選者として鹿児島歌壇の向上に尽力した。

杉田 久女(すぎた ひさじょ)

1890年5月30日~1946年1月21日 没年56歳
本名・久。旧姓・赤堀。俳人。鹿児島市平之馬場(現・平之町)生まれ。父の仕事の関係で、4歳頃までを鹿児島市で過ごした。その後、沖縄、台湾、東京等に移り住み、御茶水女子高等学校を卒業。19歳で美術教師・杉田宇内と結婚、福岡県小倉市に移る。26歳頃から俳句を始め、「ホトトギス」に投句。高浜虚子に認められ、多くの句が雑詠巻頭を飾った。また、主宰誌「花衣」は女流俳壇に大きな影響を与えた。しかし、1936(昭和11)年、「ホトトギス」同人を突然除籍され、晩年は失意の日々を送った。

山口 誓子(やまぐち せいし)

1901年11月3日~1994年3月26日 没年92歳
本名・新比古(ちかひこ)。俳人。京都市生まれ。父方の祖父が鹿児島県国分市(現・霧島市)の人。昭和初期に「ホトトギス」雑詠欄の新鋭として活躍、水原秋櫻子らと共に「4S」と称された。のち、「ホトトギス」を離脱、「馬酔木」に参加し、新興俳句運動を牽引。戦後は、「天狼」を創刊主宰し、昭和俳壇に大きな影響を与えた。主な句集に『凍港』『黄旗』等。

篠原 鳳作(しのはら ほうさく)

1906年1月7日~1936年9月17日 没年30歳
本名・国堅(くにかた)。俳人。号は当初、未踏、雲彦。鹿児島市池之上町生まれ。鹿児島第二中学校、第七高等学校を経て東京帝国大学卒。初め、「ホトトギス」などに投句、のち、新興俳句運動の急先鋒「天の川」に同調、天の川鹿児島支社に参加。勝目楓渓らと鹿児島市で「傘火」を創刊し、積極的に無季俳句を推進した。沖縄県立宮古中学校、母校の二中で教鞭を執りながら、句作にも力を注いだが、30歳の若さで急逝した。

藤後 左右(とうご さゆう)

1908年1月21日~1991年6月11日 没年83歳
本名・惣兵衛。俳人。鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)生まれ。志布志中学から第七高等学校を経て、京都帝国大学卒。京大在学中に「ホトトギス」の巻頭を飾り、一躍注目を集めた。1933(昭和8)年、平畑静塔らと「京大俳句」を創刊して意欲作を発表するなど活躍し、同時代の中村草田男と並び称された。戦時中は軍医として南方に従軍。戦後、故郷の志布志で医院を開業。郷土の俳句雑誌「天街」の代表として後進の指導に当たるかたわら、口語俳句の推進に力を注ぐ。主な句集に『熊襲ソング』『新樹ならびなさい』等。

福永 耕二(ふくなが こうじ)

1938年1月4日~1980年12月4日 没年42歳
俳人。鹿児島県川辺郡川辺町(現・南九州市)生まれ。ラ・サール高校時代に「ざぼん」主宰の米谷静二のもとで俳句を学び、20歳で「馬醉木」巻頭を得て、一躍注目を集めた。鹿児島大学卒業後、鹿児島純心女子高校などに勤務し、1965(昭和40)年、上京。千葉県で教鞭を執りながら、32歳で「馬醉木」編集長となり、才腕を振るった。水原秋櫻子に石田波郷の再来と期待されたが、42歳の若さで急逝した。句集に『鳥語』『踏歌』『散木』。

向田邦子の世界

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向田にとっての「故郷もどき」

1939(昭和14)年1月から2年3か月を鹿児島で過ごした向田。彼女は、「故郷もどき」として鹿児島を愛しました。

ここでは、1979(昭和54)年の「鹿児島感傷旅行」の当時の地図とエッセイを合わせた大型パネルや鹿児島に関する向田の資料を展示しています。

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ライフスタイル

ライフスタイルを取り上げられることが多い、向田邦子。
ここでは、食やおしゃれ、旅など彼女の様々な魅力に迫ります。

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作品世界

向田ドラマの歴史を一堂に展示します。
また、ドラマトピック展示では、1つのドラマを詳しく取り上げます。

そして、小説家、エッセイストとしての向田の業績も紹介いたします。
今でも多くの人に読み継がれている彼女の作品を、生原稿や構想メモなどで紹介します。

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リビング再現

向田がくつろいだリビングを再現しています。
リビングの様子を伝える映像は必見です。

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映像コーナー

ここでは、本人や向田和子(妹)、久世光彦(演出家)のインタビュー映像、向田ドラマを見ることができます。

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音声コーナー

留守番電話の応答テープなど、本人の声を聞くことができます。

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図書コーナー

向田の著作、彼女が読んでいた本を読めるコーナーです。

向田 邦子(むこうだ くにこ)

1929年11月28日~1981年8月22日 没年51歳
脚本家、エッセイスト、小説家。東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)生まれ。10歳の時、保険会社に勤める父親の転勤に伴い、鹿児島で2年3か月を過ごす。実践女子専門学校卒業後、広告会社の社長秘書から映画雑誌「映画ストーリー」の編集者を経て、29歳で初めてテレビ台本を執筆。ドラマ「時間ですよ」「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」など多くの作品を生み出した。1976(昭和51)年、エッセイの連載を開始。これをまとめた『父の詫び状』が出版され話題を呼ぶ。1980(昭和55)年、連載中の連作短編小説『思い出トランプ』より、「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」で第83回直木賞を受賞。翌年、台湾旅行中に航空機事故により死去。

向田邦子の世界 展示コーナーパノラマ映像

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